旧約聖書に出て来るアブラハムが、
次男のイサクを神への生け贄に捧げようとしたところ、
「お前の信仰心はよくわかった。代わりに羊を捧げなさい」
という神からのお告げがあったという話しが由来の、
イスラム教のお祝いの日。
イスタンブールに住むようになって、
4度目の犠牲祭。
これまでずっと目を背けてきましたが、
今年はお友だちの牧場の犠牲祭に招かれたこともあり、
羊を捧げ、捌くところに立ち会わせていただきました。
私たちのために命を犠牲にしてくれる羊は、
生後8ヶ月。
ありがとうね。 |
捧げられる羊は雄だけ。
自分の運命がわかっているかのように、
羊は静かにその時を待ちます。
そしてその時が来ると地面に横たえられ、
お祈りが捧げられ、
羊の喉を切る人が羊に目隠しをし、
やわらかい羊の喉元にナイフを当て、
すっと喉を切りました。
首から血が飛び、
息をしている身体から
すーっと命が消えて行く瞬間。
それは想像していたより、
ずっとずっと静かで
厳かで
神聖な時間でした。
私はというと、
ただひたすら、涙、涙、涙。
それは可哀想とか悲しいというのではなく、
命の重さに心が揺さぶられたというか。
数時間前まで生きていた大切な命を ありがたく、おいしくいただきました。 |
数年前に、
ちはるの森というブログを読んで、
『命をいただくこと』を改めて考えさせられました。
ちはるさんは2011年の東日本大震災の後、
「自分の暮らしは自分で作る」ために
最初は鶏などを解体する屠殺の勉強から始め、
その後、猟師免許を取得。
それからは自分がいただくお肉となる動物を、
野山で必要な分だけ獲り、また自分で育てているそうです。
まさに自給自足。
羊たちが育つ環境。 羊や放牧されてのびのび育ちます。 |
私も畑を手伝うようになって常々感じているのですが、
自分で食べるものを自分で作るということは、
とても大切なこと。
お肉もお野菜もお店でみると単なる『食べ物』なんですが、
本当に食べたいものを作る作り手になってみると、
そこには本当に沢山の労力と努力と時間と愛がこめられている、
ということがわかります。
そのようにして育てた命は、
本当にありがたいもの。
そう思うと、感謝して残さずいただくことが
とても自然なことなのです。
しかし残念なことに、
普段スーパーに並んでいるお肉や卵のほとんどは大量生産されていて、
お肉となる動物たちや卵を産んでくれる鶏のほとんどは、
とても残酷な方法で扱われています。
もちろんそこにはその動物の命に対する
『尊厳』や『感謝』というものなどは、ほとんど存在しないでしょう。
それだから、大量に消費し、大量に破棄できるのではないかと思うのです。
大量生産する側からしたら、動物は命というよりはお金を産む商品なのでしょう。
命がこのように扱われることは、
犠牲祭も色々ですが、
今回立ち会わせていただいた友だちのお宅では、
本当の犠牲祭を経験できました。
貴重な機会を与えてくださり、
ありがとうございました♡
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