2016年9月18日日曜日

Kurban Bayramı -- 犠牲祭

犠牲祭とはー

旧約聖書に出て来るアブラハムが、
次男のイサクを神への生け贄に捧げようとしたところ、
「お前の信仰心はよくわかった。代わりに羊を捧げなさい」
という神からのお告げがあったという話しが由来の、
イスラム教のお祝いの日。



イスタンブールに住むようになって、
4度目の犠牲祭。

これまでずっと目を背けてきましたが、
今年はお友だちの牧場の犠牲祭に招かれたこともあり、
羊を捧げ、捌くところに立ち会わせていただきました。

私たちのために命を犠牲にしてくれる羊は、
生後8ヶ月。

ありがとうね。

捧げられる羊は雄だけ。

自分の運命がわかっているかのように、
羊は静かにその時を待ちます。

そしてその時が来ると地面に横たえられ、
お祈りが捧げられ、
羊の喉を切る人が羊に目隠しをし、
やわらかい羊の喉元にナイフを当て、
すっと喉を切りました。

首から血が飛び、
息をしている身体から
すーっと命が消えて行く瞬間。

それは想像していたより、
ずっとずっと静かで
厳かで
神聖な時間でした。

私はというと、
ただひたすら、涙、涙、涙。

それは可哀想とか悲しいというのではなく、
命の重さに心が揺さぶられたというか。

数時間前まで生きていた大切な命を
ありがたく、おいしくいただきました。

数年前に、
ちはるの森というブログを読んで、
『命をいただくこと』を改めて考えさせられました。

ちはるさんは2011年の東日本大震災の後、
「自分の暮らしは自分で作る」ために
最初は鶏などを解体する屠殺の勉強から始め、
その後、猟師免許を取得。
それからは自分がいただくお肉となる動物を、
野山で必要な分だけ獲り、また自分で育てているそうです。

まさに自給自足。

羊たちが育つ環境。
羊や放牧されてのびのび育ちます。

私も畑を手伝うようになって常々感じているのですが、
自分で食べるものを自分で作るということは、
とても大切なこと。

お肉もお野菜もお店でみると単なる『食べ物』なんですが、
本当に食べたいものを作る作り手になってみると、
そこには本当に沢山の労力と努力と時間と愛がこめられている、
ということがわかります。

そのようにして育てた命は、
本当にありがたいもの。
そう思うと、感謝して残さずいただくことが
とても自然なことなのです。

しかし残念なことに、
普段スーパーに並んでいるお肉や卵のほとんどは大量生産されていて、
お肉となる動物たちや卵を産んでくれる鶏のほとんどは、
とても残酷な方法で扱われています。

もちろんそこにはその動物の命に対する
『尊厳』や『感謝』というものなどは、ほとんど存在しないでしょう。
それだから、大量に消費し、大量に破棄できるのではないかと思うのです。
大量生産する側からしたら、動物は命というよりはお金を産む商品なのでしょう。

命がこのように扱われることは、
本当に残念で悲しいことです。

いたるところに鶏やらアヒルやら。
場所によっては羊や山羊、牛も放牧されています。

犠牲祭も色々ですが、
今回立ち会わせていただいた友だちのお宅では、
本当の犠牲祭を経験できました。

貴重な機会を与えてくださり、
ありがとうございました♡


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