朝は早起きして死海に浮かびながら日の出を待ちました。
日中、大地が吸い込んだ熱のおかげで日の出前、一日のうちで一番気温が低い時間帯であっても、20度ほどあったように記憶しています。
死海の水温は「冷たい」とまでは行きませんが、それでも少し冷んやりしていました。
でも東の空、ヨルダン側から太陽が顔を出し始めると、水温がすぐに温かくなるのを感じられました。
太陽って本当にすごい。
この日は、第一次イスラエル戦争の遺跡であるマサダ、旧約聖書のサムエル記上23章28節〜24章22節の舞台であるエン・ゲディ、死海文書が発見されたクムラン、そしてイエス・キリストが洗礼を受けたヨルダン川を訪れました。
どれもこれもイスラエル、そして宗教的にとても重要な場所でありますが、私はその中でも『マサダ』のことが、一番強く印象に残っています。
上空から見たマサダ。 (写真はWikipediaより) |
マサダの要塞は紀元前100年頃、ハスモン家のアレキサンダー・ヤンナイウスが最初に築き、後にヘロデ王が万が一の避難所として改修・強化しました。
高さ400メートルの切りだった岩山の頂上に建てられたこの要塞は難攻不落と言われていましたが、66年にローマ帝国との大戦が始まり、70年にエルサレムが陥落した後、熱心党の一派であるシカリ派の避難民967名が、このマサダの要塞に立て篭りました。
(※熱心党:イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教団体)
15,000人のローマ軍兵士で包囲するも、難攻不落と言われたこの要塞の陥落にローマ軍は相当手こずりましたが、やがてイスラエルの捕虜と奴隷を大量動員して、土を運び崖を埋め、城壁を乗り越える突破口の建設を開始しました。
イスラエル側も応戦するものの、同胞が戦線にいては、攻撃も躊躇したかもしれません。
その後も必死に抵抗するものの、城壁は着実に埋められ、明日、ローマ軍が城内に突入してくるであろうという日の前夜、指導者は中でも屈強な兵士を城内のシナゴーグに集め、集団自決の意を伝えます。
抵抗すれば全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが、当時の習慣でした。
かつてエジプトで奴隷だった頃の屈辱的な経験から、最後までここに残ったイスラエルの民は、ローマ軍に殺されることも、再び奴隷になることも拒絶し、自らの手で命を絶つことを選んだのです。
ご存知の方も多いと思いますが、ユダヤ教では自殺は禁止されています。
その為、まず集められた男たちが家族や近隣の同胞たちにこの決意を伝え、それぞれを殺し、残った男たちも順番に殺し合い、最後に残った一人、恐らく指導者と見られる人物が自決し、73年にこの戦いは終わりました。
このとき歴史上、イスラエル民族は滅亡しました。
マサダと麓からマサダに続く『蛇の道』。 下から徒歩だと1時間余り。 ケーブルカーだと3分ほど。(待ち時間は含まず) (写真はWikipediaより) |
しかしその後、水や食糧の保存してある穴で、7人の生存者が見つかりました。
2人の女性と5人の子ども。
そして、ローマ軍が突入する前夜に何があったのか、彼らの口からそのときの真実が語られたのです。
この話しが語られたのは、指導者が男たちに自決の意を伝えたと言われているシナゴーグ。
太陽が照りつけ、乾いた風が吹く中、当時その決意を聞かされたであろう兵士と同じ場所に座り、目を閉じて話しに耳を傾けていると、そのときの兵士の気持ちと私の心とが同化し、涙があふれました。
民族が滅び、国がなくなる瞬間。
このような背景から、マサダは現代ユダヤ人にとっても聖地で、イスラエル国防軍はマサダで軍将校団の入隊宣誓式を実施し、イスラエル軍士官学校の卒業生は山頂で「マサダは再び陥落せず」と唱え、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓うそうです。
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